なんでドラマCDなんてものがあるの?アニメがあるのに。

以前にこんなことを聞いた。
映像のついたアニメがあるのに何故わざわざ声だけのものを聴くのだ、という。
何故ドラマCDがあるのかなんて不思議に思ったことすらなかったので、
これは斬新な見解だと思った。
そこで、アニメ業界に詳しいわけでもない素人なのだが、
ドラマCDが存在する理由を考えてみた。


結論から言えば、やはり予算の関係なのではないかと考えられる。
アニメは作るのに沢山の人間と、時間が必要だ。だからお金も沢山かかってしまう。
しかしドラマCDならば、声優さえ揃えれば作ることができるため、
アニメに比べて低予算なのだ。


あとは、ドラマCDは2つに分けられると思う。
アニメ化された作品のものと、アニメ化されていない作品のものだ。
そしてそれぞれ、作られる理由が違うように思うのだ。


アニメ化されている作品の場合、本編の番外編になっている内容のものが多い。
これは、本筋のストーリーを壊さないように配慮されているのだと思われる。
既に名前の売れている作品を、低予算でファン必須のグッズにできるので、
ファンからの搾取に絶大な効果を発揮しているんじゃないかと思う。
本編の“おまけ”であろうと、全ての物語を知っておきたいと思うファンは多いだろうから。


アニメ化されていない作品の場合、これは原作に沿った内容のものが多い。
この場合は、ファンサービスだけでなく、
さらに知名度を上げるための宣伝なのではないかと思われる。
ある程度人気はあるが、アニメにするほど予算はかけられない、
そういった作品をドラマCDにするのだ。
こちらはグッズ販売の儲けよりも、ファンサービスと、
今後のメディアミックスに向けた布石という側面が強いのではないかと思う。


まとめると、

  • 画がいらないので低予算で作れる。
  • 時間もかからないので、何度も発売することが可能。
  • 上記の理由から、知名度の低い作品のファンサービスと宣伝にも使える。


こんな感じなのだろうか?
ただ最近は、さらにお手軽なラジオ配信が好まれる傾向にあるなあ。
あれは作品よりも声優に思い入れのある人が聞くみたいだけども。
やはり無料なのは強い。
それを言ったらドラマCDだってニコニコ動画にUPされたりしちゃうんだけども…

〜するための○の方法とか、○つのこととか○冊の本とか

どれくらいの数字がベストなんだろうなあ、とふと思った。
1つだけだと本当にそれだけでいいの?って感じがするし、
2つとか4つとか偶数個だと、なんとなく響きが悪い。
たまに、「たった1つの方法」ってのも見るけど、ちょっと胡散臭い雰囲気。
だからといって、あまり多すぎるのも考え物。
数を見て、ちょっと引いてしまうかもしれない。


やはりよく見受けられる、3や7あたりがベストのような気がする。


何故か、5は全然別物のように感じる。
5だったらまだ6のほうが良いというか。
この5だとしっくりこないという感覚は一体何なんだろう…

森ノ目しな子ロリ化現象(イエスタデイをうたって)

第1話(全然違う…雑誌掲載は1998年)

2巻(1巻後半から短い髪に)

3巻(少し目が大きく)

4巻(4巻の内容は2002〜04年に間を空けて掲載されたものなので、
この中だけでも多少の変化が。)

5巻(かなり幼く)

6巻(最新刊)


可愛くなっているけど、個人的には初期や羊のうたの頃のような、
もっとキツい目をした女キャラも好みです。


イエスタデイをうたって」の6巻が出ていたので、
以前の巻も読み返してみたら絵の違いにびっくり。
まあ10年もやっていれば絵柄も変わるのも当然か。
途中に他の漫画も描いていたわけだし。
冬目景先生はもう少し絞って描けばいいのに…
でも今は、イエスタは終わる気配を見せているし、
「ACONY」はちゃんと載るし、かなり良いほうなのかもしれない。
「ももんち」は不定期すぎるけど…
まあ、あまり贅沢は言わないほうがいいか。
画集も一緒に買いたかったんだけど3800円は割高で悩む…

サンデー系感想(金剛番長と魔王とブラクラのみ)

金剛番長

ロリを奪い合うバトル勃発、というのは冗談として、
ついにマシン番長との再戦が始まったわけだけども。
周囲のためならどこまでも強くなれる、とは王道だけど金剛らしい展開だなあ。
それにしても真の番長の条件は厳しい。
来週も、金剛が新たな能力を披露するという、珍しく少年漫画らしい展開がありそう。
今のところの戦闘は、気合でパワーアップはしても技や戦法が工夫されてて面白いから、
インフレは抑えて欲しいところだけどどうなるか。
ただぶつかり合うだけのインフレバトルにならないといいなあ。

魔王

潤也の能力の片鱗が見えてきた。
やはり択一から正解を引き当てる能力になりそう。
2chのスレを見たらあの拷問部屋?の三人組は「モダンタイムス」のキャラクターらしい…
出たばかりのあれか。
他の伊坂作品を、グラスホッパー以外にも色々と混ぜていくんだろうか?
でも、「モダンタイムス」は「魔王」に関連していると聞いたから特別なのか。
小説も早いうちに読まないと……

ブラックラグーン

「これから何を始めようっていうんです?」
第三次世界大戦だ!」

ジャンプ色々

ワンピースにようやくメインヒロイン誕生か

ハンコック様は良いキャラだな。面白いし可愛いし。
ルフィと深く関わるのはマーガレットだと思ってたから不意討ちだ。
途中までは一緒に来るんだろうけど、仲間になってくれないものか。
あと、最近サンダーソニア様が可愛く見えてきてたんだけど、
今週は特に可愛かった気がする。驚いてる顔とか。
ギャグ顔が可愛く見えると通常時の顔も可愛く見えてくる不思議。
もう九蛇海賊団ごと仲間になっちゃえばいいのに。


「利息がつきます」の見開きが素敵すぎる

最近のHUNTER×HUNTERは、ナレーション多すぎ、言葉で解説しすぎ、展開遅い、
と文句が色々あったんだけど、今週のあの見開きを見たらどうでもよくなった。
シュールなんだけどカッコいい。妙に芸術的だった。
ああいうの大好き。

バラック・ジニン大尉の過酷な境遇(ガンダム00)

機動戦士ガンダム00 第7話感想。


アレルヤスミルノフ大佐の会話が、完全に「娘さんを僕に下さい」状態。


それにしても、アレルヤ関連の設定ここで終了って早くないか。
と思ったが、1期と合わせればもう実質32話なわけだし、
いい加減アレルヤとソーマの因縁は終わらせておいたほうがいいのか。


これまでは、アレルヤばかりがマリーを追っていたから、今週の最初とか
「こいつは気合の入った変態だな(MS抱きつき)」
とまで思ったけど、マリーからしてもアレルヤは大事な存在だったんだね。
お互いに愛し合っているのがわかって、アレルヤのこれまでの行動も納得。


しかし、「ソーマ・ピーリス」の出番が無くなったっぽいのが悲しすぎる。
人格は残っているということだけど、
これからは「マリー・パーファシー」が主人格になるんだろう?
それに加えて、ハレルヤも復活しないくさいんだよなあ…今回の雰囲気だと…


しかも、もうマリーは戦闘しないはずだから、ソレスタルビーイングに入って、
プトレマイオスⅡにずっと乗ってることになるのかな。
それでアンドレイには新たな“乙女”であるルイスが割り当てられたのだろうか。
でも結局はルイスも沙慈のもとに戻って、スミルノフ親子揃って涙目wwになりそうで怖い…
そういえば今週は、女キャラが皆妙に綺麗に見えたなあ。
特にマリナとシーリン。


ミスターブシドーが最近見ていられない。もっと軍人らしさとか、侍らしさが無いと。
いや、“サムライ”らしさはあるのか?この違いが伝わると嬉しい。
「ならば斬る価値も無し!」はカッコよかったけど、「聞く耳持たぬ」は酷いや。
彼は仲間がいないと駄目だな。ワンマンアーミーはやめさせるべき。
グラハム時代は敵をとろうと阿修羅すら凌駕したりとまともにカッコよかったのに、
ブシドー化してからはネタ的なカッコよさしか持ち合わせていない。
見ていて面白いけど、いい加減やりすぎな感がある。
ビリー早く来てくれー!カタギリのお前が本当の武士道を教えてやるんだ。


しかし刹那は相手がブシドーじゃなかったら死んでいたよね…
まあ、ブシドーじゃなかったらあっさり決着が着いていただろうから、
どちらにしても助かったのかな。
それにしても、相当危険な状況には変わりない。
おやっさんもっと注意しろよ…沙慈のことも。
あの時のおやっさんはカッコよかったけどね。


今週の本題。バラック・ジニン大尉が可哀想過ぎる件について。
隊に加わった新人准尉はいつも突撃して危険な目に。
ようやく合流した本隊にいたのは命令無視ばかりの変な仮面男。
唯一頼れる超兵殿はいきなり戦死。
その他にも、部下達は出撃するたび一機は撃墜されている。
ガンダム00で最も過酷な運命を背負っているのは彼なのかもしれない…
彼は結構優しいところもあるようだし、胃に穴が空くんじゃないのか。
アンドレイのフォローは地味に助かっているかもしれん。
動機は不純だけど根は真面目だし。

イメージと現実との乖離(かんなぎヒロイン非処女騒動)

かんなぎのヒロイン非処女騒動を見てて思ったんだけど、
処女じゃないなんて、裏切ったな、他に男がいたなんて、このビッチ!
とかの、男がいたとか、ヒロインの人間性とか、処女性をオタクが神聖視とか、
そういった事は問題ではないように思う。
「彼女は自分だけのもの」という独占欲があるのではなく、
「自分は彼女について全て知っていたい」というような、
知識の面での独占欲があるのではないかと僕は考えた。
そして批判する理由は、「自分の思っていたものと違うものになってしまった」
という発想なのではないか、と。


そもそもの話、ヒロインは作品の主人公が好きなわけだ。
自分とヒロインの間には関係性など無いわけだ。
それでもヒロインを可愛いと思ったり、自分と恋愛しているかのように思えたりするのは、
ヒロインと主人公が好き合うまでの過程がほぼ全て見えているからなんだと思う。
どのように出会い、どのように仲良くなり、どのように付き合い始めたのか。
それらを全て見ているから、ヒロインがどのような人物なのか把握できる。
そして、主人公やヒロインに感情移入することができる。
場合によっては思い入れが強くなり、本当に好きになることだってあるのだろう。


読み手は皆、作品を読みながら自分だけの世界を作っているのではないかと思う。
○○はこういう人間。△△はこういう奴。
そういったものが集約された、自分で作った想像上の作品。
それが気に入った場合にこそ、その作品が好きだということになる。
そして、その想像上の作品をより高精度に作ろうと思った場合、
情報はできるだけ多く、正確でなければならない。


しかし、「以前にも男がいた」という事実は、
自分にはわからない未知の要素を大量に作り出す。
何しろ、どのようにして出会い、関係を築いていったのか。
そして、どのようにしてその関係は崩れていったのか。
それら全てが見えなければ、ヒロインは得体の知れない存在のまま、
自分の想像上の作品に戻ってくることができなくなってしまう。
これも、過去の男とどのような付き合いをしていたのか細かく描写されれば解決するのだが、
多くの場合、ヒロインと過去の男との物語はあまり明かされないことが多い。
そうして、ヒロインは読み手にとって感情移入のできない存在となってしまう。


つまり、「処女じゃなかった」ことは問題ではないのだ。
自分のイメージを叩き壊されるような展開が起こったことで、
「ヒロインが自分の知っているヒロインでなくなってしまった」
というのが問題なのである。
そして、自分の中で完成されたヒロイン像を大幅に変革しなければならなくなったために、
他のキャラクターに対しても見方が変わってしまい、
元々の好きだったイメージ像が崩れてしまったのではないか。
そうして、完全な別物にしか見えなくなったために、
以前のように楽しむことが出来なくなったのではないか、
と僕は考えてみた。