イメージと現実との乖離(かんなぎヒロイン非処女騒動)

かんなぎのヒロイン非処女騒動を見てて思ったんだけど、
処女じゃないなんて、裏切ったな、他に男がいたなんて、このビッチ!
とかの、男がいたとか、ヒロインの人間性とか、処女性をオタクが神聖視とか、
そういった事は問題ではないように思う。
「彼女は自分だけのもの」という独占欲があるのではなく、
「自分は彼女について全て知っていたい」というような、
知識の面での独占欲があるのではないかと僕は考えた。
そして批判する理由は、「自分の思っていたものと違うものになってしまった」
という発想なのではないか、と。


そもそもの話、ヒロインは作品の主人公が好きなわけだ。
自分とヒロインの間には関係性など無いわけだ。
それでもヒロインを可愛いと思ったり、自分と恋愛しているかのように思えたりするのは、
ヒロインと主人公が好き合うまでの過程がほぼ全て見えているからなんだと思う。
どのように出会い、どのように仲良くなり、どのように付き合い始めたのか。
それらを全て見ているから、ヒロインがどのような人物なのか把握できる。
そして、主人公やヒロインに感情移入することができる。
場合によっては思い入れが強くなり、本当に好きになることだってあるのだろう。


読み手は皆、作品を読みながら自分だけの世界を作っているのではないかと思う。
○○はこういう人間。△△はこういう奴。
そういったものが集約された、自分で作った想像上の作品。
それが気に入った場合にこそ、その作品が好きだということになる。
そして、その想像上の作品をより高精度に作ろうと思った場合、
情報はできるだけ多く、正確でなければならない。


しかし、「以前にも男がいた」という事実は、
自分にはわからない未知の要素を大量に作り出す。
何しろ、どのようにして出会い、関係を築いていったのか。
そして、どのようにしてその関係は崩れていったのか。
それら全てが見えなければ、ヒロインは得体の知れない存在のまま、
自分の想像上の作品に戻ってくることができなくなってしまう。
これも、過去の男とどのような付き合いをしていたのか細かく描写されれば解決するのだが、
多くの場合、ヒロインと過去の男との物語はあまり明かされないことが多い。
そうして、ヒロインは読み手にとって感情移入のできない存在となってしまう。


つまり、「処女じゃなかった」ことは問題ではないのだ。
自分のイメージを叩き壊されるような展開が起こったことで、
「ヒロインが自分の知っているヒロインでなくなってしまった」
というのが問題なのである。
そして、自分の中で完成されたヒロイン像を大幅に変革しなければならなくなったために、
他のキャラクターに対しても見方が変わってしまい、
元々の好きだったイメージ像が崩れてしまったのではないか。
そうして、完全な別物にしか見えなくなったために、
以前のように楽しむことが出来なくなったのではないか、
と僕は考えてみた。