克巳VSピクルとは一体なんだったのか

ボスキャラの圧倒的戦力を見せ付けるために強いキャラを倒させる。
いわゆるかませ犬。
それはよくあることだけど、決着の付け方が酷すぎやしないか。
いや、まだ勝負は終わってないんだけどさ。
以下、最近の範馬刃牙の展開を読んでて思ったこと。




強いキャラがさらに強いキャラに負けるという展開にはそれなりの見せ方があると思う。
それには、敗者側のそれまでの準備と、勝者側のその後の反応が重要だと思うのだ。


敗者側の準備として必要だと思うのは、
負けたとしても十分にやった、試合に負けて勝負に勝った、
と思わせるような状況作りや内面描写だ。


そして、勝者側のその後の反応として必要なのは、
負けたものに対して敬意を表明したり、讃えたりすること。
もしくは、大きなダメージを負い、少しでも困惑することだ。
あとは、戦闘中に動揺を覚えたりするのでもいい。


例を挙げる。
ジョジョの奇妙な冒険第2部のシーザー・ツェペリとワムゥの戦い。
これには、上記2つの要素が完璧に含まれていたと思う。


強敵ワムゥを追い詰めるも、ついには敗れ、シーザーは満身創痍。
既に死を待つしかない身体になりながらも、
仲間であるジョセフの命を助けるために、敵から解毒剤を手に入れる。
その後、人を助け、未来へと命をたくしてきた「ツェペリ魂」を体現するため、最後の力を振り絞る。
それを見たワムゥは、解毒剤をジョセフに渡すことを阻止できたが、あえてそれをしなかった。
ワムゥはシーザーのことを尊敬に値するものだと認める。
「永遠に記憶の隅にとどめておくであろう シーザー」
とまで言ったのだ。


これは名勝負だった。
負けたシーザーは死んでしまったが仲間を救い、誇りを失うこともなかった。
勝者も敗者も評価を下げることがなかった。


ここで、何故勝者による敗者への反応が必要なのか語ろうと思う。
圧倒的に強いというだけでは、そのキャラは好きになりにくい。
どういう考えによって行動しているのかがわからない、
人間味の無いキャラには感情移入ができない。
しかし、こうやって弱みを見せることで、強敵が一気に身近な存在になるのだ。


身近な存在にしてしまっては、その敵に対する脅威が薄れるのでは。
と思うかもしれない。
たしかにそういうこともあるだろう。
しかし、バトル漫画というのは、キャラクター同士の掛け合いをメインとしている。
敵に恐怖を感じるかということよりも、
戦っているキャラクター達が魅力的かどうかのほうが重要だと思うのだ。


克巳VSピクルについては、負ける側の準備は完璧だったと思う。
読者は「克巳は負けてしまうのだろうな」と思いつつも、
真剣でありながら、周囲に相手にされない克巳を応援したくなった。
グラップラー時代から登場しているし、どんな男かは充分わかっている。
ピクル探し、真マッハ突きを覚えるための修行、
2人の母親や門下生の激励でさらに愛着が湧いた。
ここまでで、既に克巳は負けても良いと思えていた。
ピクルに一矢報いることができたのならばそれでいいと。


なのに、克巳の拳は、ピクルではなく空気の壁によって砕けた。
全力でぶつかることなく、その闘いは終わりに向かってしまったのだ。
克巳はピクルから「ティラノサウルス並の攻撃力」という評価は貰うことができた。
しかし、ピクルは依然として何を考えているのか判然としない。
それに、ピクル自身の身体にはダメージが無い。
だから、ここまで頑張ってきた克巳に対して、勝者側からの賞賛はいまだ無いに等しい。
そして、今週の話で完全にタイミングを外してしまったというのが大きい。
もしこれから、
「余裕に見えたピクルだが、実は内臓にダメージが!」
「ピクルは回復のため仕方なく睡眠に入った!」
などと言われたとしても、
読者の心は既に盛り上がりのピークを過ぎ、さらには無理矢理冷ませられたような状態。
素直に良かったとは言えそうにない。
「武を50年は進歩させたわ」ではカタルシスを味わうには弱すぎる。